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最高裁判所第二小法廷 昭和59年(行ツ)302号 判決 1987年5月08日

上告人 松村四郎

被上告人 熊本西税務所署長

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人加藤一昶、同葛西宏安の上告理由について

国税通則法六八条に規定する重加算税は、同法六五条ないし六七条に規定する各種の加算税を課すべき納税義務違反が事実の隠ぺい又は仮装という不正な方法に基づいて行われた場合に、違反者に対して課される行政上の措置であつて、故意に納税義務違反を犯したことに対する制裁ではないから(最高裁昭和四三年(あ)第七一二号同四五年九月一一日第二小法廷判決・刑集二四巻一〇号一三三三頁参照)、同法六八条一項による重加算税を課し得るためには、納税者が故意に課税標準等又は税額等の計算の基礎となる事実の全部又は一部を隠ぺいし、又は仮装し、その隠ぺい、仮装行為を原因として過少申告の結果が発生したものであれば足り、それ以上に、申告に対し、納税者において過少申告を行うことの認識を有していることまでを必要とするものではないと解するのが相当である。原審の適法に確定した事実関係によれば、本件重加算税賦課決定処分にその賦課要件を欠いた違法はないということができ、その取消を求める上告人の請求を棄却した原審の判断は、是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判官 林藤之輔 牧圭次 島谷六郎 藤島昭 香川保一)

上告理由

第一理由不備

原審において控訴人は国税通則法第六八条に規定する重加算税の賦課要件として、納税者の過少申告等(無申告も含む以下同じ)を行うことについての認識が必要であり右認識が必要でないとする一審判決は誤まりであると主張したのに対し原審判決は判断を示していない。

国税通則法第六八条の適用の要件として納税者に税額等の計算の基礎となるべき事実について仮装隠ぺい行為があればそれで足りるのか或いは、右行為の他に、右行為のあつた期間についての申告の際に過少申告であるとの認識まで必要であるかとの問題がある。

一審は右の問題について同条は右仮装隠ぺい行為そのものに対する行政上の制裁であるからそれのみで足り過少申告であるとの認識は必要でないと判示した。

しかし控訴人はそれが誤まりである旨指摘し控訴審において昭和五八年八月三〇日付準備書面において以下のとおり主張した。

国税通則法第六八条に規定する重加算税の賦課には納税者の過少申告等(無申告を含む以下同じ)の認識が必要であること。

右の点については控訴人の昭和五八年三月三一日付準備書面においても触れたところであるが更に附加して述べる。

原判決は重加算税について過少申告等の場合に課税要件事実を隠蔽又は仮装する方法によつて行なわれた場合に行政手続により課されるものであるとし、故意に所得を過少に申告したことに対する制裁ではない。

従つて、税の申告に際し、仮装隠蔽した事実に基いて申告する、しないなどという点についての認識を必要とせず結果として過少申告などの事実があれば足りるものと解すべきであると判示する。

右判断は、過少申告加算税等(無申告加算税を含む、以下同じ)と重加算税との区別を正確に把握していないと思われる。

即ち過少申告加算税等は、行政制裁として故意過失の有無を問わず過少申告の結果に対し科されることは異論のないところであるが、重加算税が仮装隠蔽行為そのものに対する制裁として科されるものであるか或いは、右行為を手段とする過少申告等の行為(無申告という不作為も含めて)に科されるものであるかを考えると課税要件事実についての仮装隠蔽行為はそれ自体では意味がなく常に過少申告等の目的を達するための手段として行なわれるものであるから、仮装済等の要件事実を使用した計算結果としての過少申告は行為者が課税要件事実を仮装等するとき当然予期しているところであり仮装隠蔽行為という手段と過少申告という結果乃至目的は不可分であり、課税要件事実の仮装隠蔽行為を行なう時点において既に申告期に過少申告が行なわれることについての認識がある。

仮りに仮装等行為の時にそれを認識していたものが、申告期に仮装等の事実を忘れ、仮装等の行なわれた課税要件を使つて申告した場合でも、仮装等の行為の際にその事実を認識して将来申告期にその課税要件を使つて過少申告をすることを意図して仮装等を行なつているのであるから、右課税要件を用いて申告すれば、結局過少申告を意図して過少申告の結果を招来したこととなる。

次に原判決は重加算税について、真実の額より過少に申告する等の認識は必要ないと判示するがその論拠として若しそのような認識が必要であるとすると、刑事犯の脱税犯の犯意と同じことになり重加算税の行政上の制裁という本質からも外れることになるからであると述べている。

これこそ全く非論理的な又非常識な説であり、右論拠とする文言そのものが乙第四号証の論文注(3)と同じであるが、そもそも刑事罰の構成要件と、行政上制裁の要件が同じであつて何故いけないのか、これらが同じ例は多数ある。

簡単に考えて、間接税、関税等の行政上の通告処分と、刑事罰とは、どこが異なるのか、広く行なわれている道路交通法違反についての通告処分と刑事罰とはどこが異なるのかいづれも要件としては全く同一ではないのか。

右はいずれも行政上の制裁といつても、手続が行政であるだけであつて、その実質的な内容は刑罰に近いものである。

又「重加算税の行政上の制裁という本質」とは何であるのか、原判決の云う「行政機関の行政手続により違反者に課せられるもので、これによってかかる方法による納税義務違反の発生を防止し、もつて申告納税制度の信用を維持し徴税の実を挙げようとする趣旨に出た行政上の制裁措置であり……」が右本質であるとして、右行政上の制裁を課するのにその要件が刑事罰を課するのと同じ要件ではいけないという理由はどこにもない。

ほ脱犯の処罰規定は偽りその他不正の行為により正規の所得税を免がれ、と規定(所得税法第二三八条一項)しているが、右規定の偽りその他不正の行為とは、具体的に云えば課税要件事実の仮装隠蔽ということであり、通則法第六八条の重加算税賦課の規定と同一である。

そして、ほ脱犯についての正規の所得税を免かれとは、具体的に云えば過少申告、無申告をするということであり、以上の点はほ脱犯、重加算税、の両規定とも文言こそ違え実質は同じであり、又、偽りその他不正の行為或いは課税要件事実の仮装隠蔽行為と所得税を免かれたこと或いは過少申告等を行なつたこととが手段と目的の関係となつていることも、前者の認識があれば後者の結果が生ずることは当然認識していることとなることも同一である。

従つて右両規定の適用においてその内容に差異はない。

従つて重加算税賦課の場合のみ課税要件の仮装等の行為と過少申告の認識という前述のとおり手段と目的乃至結果として必然的に組合わさつているものを不自然に二つに分けて、ことさら行政制裁としての要件を刑事罰の要件と異ならせ重加算税の場合は仮装等の認識のみで足りるとするのは行政目的至上の違法な論理であると思われる。

前記準備書面で述べたごとく行政上の制裁と云つても重加算税は、本件の場合一五〇九万円という重い制裁を課するものであるから、これを課する要件として、刑事罰の場合と同様の厳格さが要求されると思われる。

原判決の云う行政上の制裁の本質ということが、行政の能率を高めるためのみのものであるとするのであれば、重加算税は行政上の制裁のみに該当するとは云い得ない。

現に最高裁昭和三九年二月一八日第三小法廷判決民集七二号二〇一頁は「重加算税(追徴税)が納税義務者の申告義務違背に対する不利益処分である以上処罰たる性質を全く有しないと云い切れない」と判示している。

しかるに原審判決は控訴人が主張した右問題に関して一審判決が答えた部分さえ削除し(判決理由二)「……具体的に当該課税年度の取引が果たして全体として利益になつているかどうか、利益になつたとしてそれがいくばくであるかを仮りに認識していない場合においても利得を生じたときはこれを隠蔽せんとの未必的な意思のもとに架空人名義による株式売買取引を行い実際に利得を得た場合には国税通則法六八条に定める重加算税賦課の要件をみたすものというべきである。……」「……少なくとも架空名義を用いて行う株式売買による所得についてはこれを除外して所得申告を行なうとの未必的な意思を有していたものと認めることができる……」と判示しているが、右判示によつては過少申告であるとの認識が要件となるのか否か明らかでない。

控訴人は、同条適用について明確に過少申告であるとの認識も要件となると主張しているのであるから控訴審判決としてはこれについて明確な判断を示すべきである。

右主張が控訴審として判断を示す必要もない程度の無意味な主張であるならばともかく右問題点については本件一審の判断は裁判例としては最初のものであるとして、税務関係の雑誌「速報税理」又「訟務月報」(参考添付資料一、二)にも掲載される程の問題なのである。

右のごとき原審判決には判断の遺脱がある。

第二法令違背と審理不尽

原審判決は理由二冒頭において一審判決の理由の部分を書き改め「しかし、そもそも、株式の売買取引は、通常、売り値と買い値の差額による利益の取得を目的として行うところの投機的取引であるから、そのもくろみどおりの利益を得ることのある反面、予測に反した株価の変動によつて却つて思わぬ損失を蒙ることもありうるものであることはいうまでもない。したがつて、多数回に亘り多額の株式の売買取引を行う者は、すべての取引の経過を適切に整理して一覧性のある記録に作成する等の方法を講じなければ、一定の期間を通じて全体としての取引が利益を生じているのか損失に終つているのかを知りがたい状況に陥ることがあつても格別不思議はない。」と認定している。

右認定は証券会社と顧客との間の株式売買の態様について表面的形式的に認定しているだけであつて、実際の株式売買はそのように単純なものではない。

実際の株式取引においては証券会社の一方的なリードによる一種の詐術的売買の慫慂により連続的に売買をさせられる場合がある。上告人の妻スミエの場合がまさにこれに当たる。顧客は株式の売買益を得るという基本的な目的を持つているとはいいながらそのような立場におかれた場合には株式の売買は利益を得ることが本来の目的とはいいながら自己の取引において現実に利益を得ているか損失となつているか認識できない状態となる。

その何よりの証拠が、上告人が昭和四二年以来毎年株式売買により多額の損失を重ねながら(甲第一号証乃至甲第六号証)なお売買を継続しているという事実である。右取引は昭和四二年から昭和四九年までの間昭和四四年の僅か一四六万円と昭和四七年の他は全て欠損であり昭和四七年度の利益を入れても通算三七〇〇余万円の欠損となつている。上告人等が毎年の株式売買による多額の損失を認識していたら株式売買など行なう筈はないのである。結局上告人等は昭和四二年以降毎年損失であつたことも昭和四七年に利益があつたことも認識していないのである。

このような利益も損失も知らない状態にあつた者に対して、たまたま結果的に或る年度において利益があつたからといつて国税通則法六八条を適用するのは誤まりである。六八条が適用されるのは、条文上明らかなように仮装隠蔽したところに「基ずいて申告をし」或いは無申告の場合に適用されるものである。

右文書上仮装隠蔽行為を行なつた事実に基ずいて所得計算を行ない申告すべき所得があることを認識しながら過少申告等を行なつた場合に適用があることは明らかである。

原審の判示するごとく「利益になつたとしてそれがいくばくであるかを仮りに認識していない場合においても利益を生じたときはこれを隠ぺいせんとの未必的な意思のもとに……実際に利得を得た場合には……」と利得の仮装等という未必的な意思と実際に利得を得たということのみで同条を適用することはできない。「利得を得た」ということと申告とはどういう関係なのか右判示では不明である。

所得税の問題として論ずるのに申告という納税者として最も重要或いは外部的には唯一の行為を無視することは妥当ではない。

結局原審判決は同条解釈として申告という行為を無視し、税法上違法な解釈を行なつている。従つて同条の適用要件として一審判決のごとく、仮装隠蔽行為のみで足りるのか否を先ず明確に示し仮りに上告人主張のように仮装した事実にもとずいて計算し過少等の認識をもつて申告することが必要であるとすれば上告人の場合、株式売買による利得の認識があつたか否か判断する必要がある。

上告人としては株式売買における利得の認識がないことを立証するため証券会社と顧客との取引において証券会社担当者は手数料をかせぐために前記のごとく詐術的な慫慂までして顧客に売買をさせ、顧客には損得について認識させず売買回数のみを増加させるという事実を立証するため控訴審において、もと野村証券熊本支店の営業課員の二村寿彦を証人として申請したが原審裁判所は不必要としてこれを却下した。右証人を取調べなければ、上告人の右主張は立証されない。

結局原審判決は、国税通則法六八条の解釈を誤まつており右解釈を誤まつたため上告人の主張について十分な審理を行なつていない。

本件は原審に差戻し再度審理する必要があると考えるものである。 以上

(参考添付資料一、二省略)

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